この町の生い立ち
明治→大正→昭和(戦前)
リニューアル 2006年4月
改訂…2012年2月29日


この地方の120年前
 この付近はわが国の“洋式砲術発祥の地”だったようで、その証拠の史跡がありました。 史跡の石碑には“日本砲兵揺籃の地”とあります。揺籃とは「ゆりかご」の事ですから、この辺は日本の砲兵術の生まれ育った所だったのです。
(史跡のある場所は普段通るような所ではなく、上志津原の人でも知ってる人は案外少ないようです。早速調査しましたので、そのあらましをご紹介します) 

史跡の案内板 すぐ横にある案内板の内容が凄いです。直接お読み下さい。

史跡の場所 上志津原十字路の東方4〜500bにあり、今はご覧のように寂しい所です。
 多分日本で初めての砲兵射的学校があって、周りには料理屋や旅館もある街並だったなんて・・・(こんな寂しい所が)・・・今では想像もつきません。 この分だとその郊外にあたる上志津原にも、逢瀬の宿(ラブホテル)の1軒や2軒あったかも知れませんね。・・・失礼


その後、この町が始まるまでの時系列
(@) 近所(下志津原)に陸軍砲兵射的学校があった頃、四街道が大砲の標的でした
明治19年下志津原に陸軍砲兵射的学校が創立しました。その時分の演習時、大砲の筒先は南の
四街道に向けられ、現在の四街道市役所付近にある「大土手山」が標的でした。
(A) その「大土手山」付近に射的学校が移されました
射的学校が移されたのは、四街道方面に鉄道敷設が計画(総武本線)されたためですが、移された
後は立場が逆転、今度は大土手山からこちらを向けて撃つようになったのです。
当然街並も消滅した訳でそれが明治30年、110年前のことでした。
(B) その後、このあたり一帯が軍用地化されていきました
軍用地化がいつ頃から始まってのかは分かりませんが、この地域一帯は3,500平方qに及ぶ陸軍の
演習地になっていきました。当然居住していた人も退去させられましたので、射的学校から撃つ大砲
は射ダ(土手)の中だけでなく、演習地内なら何処に撃っても良くなったのです。
(C) 演習地の中には松林が点在していました
陸軍はその松林を1号林・2号林・・・と呼んでいました。何号林まであ
ったのかは定かでありませんが、この上志津原には3・4・5号林がありま
した。
(D) その松林は大砲の標的になっていました
「教官殿に報告! 着弾点は3号林の手前100間ほどでありましたッ」
「馬鹿者! 今度はもっと上を向けて撃てッ」
(E) ・・・そして太平洋戦争 ⇒ 終戦へ・・・
(F) 戦争が終わり、軍用地は農地化されていきました
国は農地化のため入植者を募りましたが、これがこの町の始まりだったのです。入植時は夥しい砲弾
の破片があったようで、それを売って家計の足しにしたそうです。
(G) 町会の班名の由来は、軍が使っていた松林の名称だったのです
現在この町会は27〜8班に分けて自治活動をしていますが、この中の班名に1組から10組というのが
あります。最初に出来た10分割時代の班名ですが、この中の3組・4組・5組、実は軍用地時代の3号
林・4号林・5号林だった所なのです。

下の写真は、陸上自衛隊下志津駐屯地高射学校広報資料館(千葉市)のHPから借用しました。
同資料館の敷地に展示されている高射砲のようです。四街道の「陸軍野戦砲兵学校」注1にも、同型砲(九九式8cm高射砲)が訓練用として使われていたと思われます。
注1…四街道に引越しした時は「陸軍砲兵射的学校」でしたが、総合軍事学校に発展して「陸軍野戦砲兵学校」に改名したようです。

四街道の大土手山…宮武孝吉さんの案内で行って来ました。
 四街道市役所近くに小高い丘があり、「砲兵射ダの跡」という石碑が建てられていました。そこの案内板にはこの丘を「大土手山」と呼んでいたそうです。「射ダ」とは「土手」という意味ですから、土手の南端で一際高く盛り土された所を「大きな土手」変じて「大土手山」と呼ぶようになったと推測されます。
 尚、射的学校が下志津原にあった頃はここは標的、小高くする必要もなかったのでしょう。でも反対に撃つ側(砲台)となると、着弾点を確認する意味からも見通しが良くなければなりません。盛り土をして一際高い「大土手山」にしたのではないかと思われます。
大土手山全景と、宮武 孝吉さん 記念碑と案内板(階段の右) 射ダのダとはこんな字です

案内板の全文を紹介します 
   ???は字が消えていて判読不能なところです
大土手山
 神社を頂いたこの丘は大土手山と呼ばれていた 麓には昭和四十年に四街道町史蹟保存会と陸軍野戦砲兵学校遺跡保存会有志一同によって建てられた「砲兵射ダの跡」の碑が??? 碑裏には次のように刻まれている

 この地は佐倉藩士大筑尚志が藩の砲術練習場として築いたものを 明治六年(一八七三)教師として招聘されたフランスのルボン砲兵大尉が増築し 初めて砲術を伝習した射ダの一角である 射的場は三千米幅三百米であった
 明治十九年その北端に陸軍砲兵射的学校が創立されたが 同三十年四街道に移転してより射場は急速に拡張され 射ダはルボン台または大土手山と呼ばれた
 大正七年(一九一八)五月 皇太子が台上で射撃をご覧になった
 下志津原演習場は砲兵学校とともに拡大し四街道の発展に寄与したが射ダは実にその始祖である
 由緒ある遺跡の消滅せんことを惜しみ碑を建ててその由来を記するものである

  昭和四十年四月二日
   陸軍野戦砲兵学校遺跡保存会有志一同
                 昭和五十一年十一月  四街道


以下は余談ですが…
千葉の軍事施設のことは、田舎(熊本)の親父も知っていました
1)私が上志津原に移り住んだ頃(S52年)熊本の親父に「『さくら』とは『佐倉惣五郎』のさくらか」と聞かれた事があります。「そうだよ」と言うと、自分の若かりし頃の思い出でしょうか、当時千葉にあった軍事施設のことを話してくれましたが、馬鹿に詳しくて驚いたことがあります。
2)その時面白かったのは「鉄道連隊」のことでした。この連隊が千葉・松戸間に軍用鉄道を敷設しましたが、その主目的が訓練だったため、工事の難しいカーブ部を必要以上に造ったそうです(占領地での鉄道敷設)。そして「当時の軍用線を今も使っている筈だ」と言う事でした。
3)熊本から戻って地図を見たら、確かに無闇に蛇行している鉄道がありました。「新京成線」です。「親父が言っていたのはこれかぁ」と感心したものでした。この記事を書くことになって、ホームページで更に調べてみました。軍用線の千葉・津田沼間は廃線になり、津田沼・松戸間だけを「新京成」が引き継いで運行しているようです。物凄い蛇行線ですが、これでもショートカットして真っ直ぐにしたそうです。
4)この他にも、習志野にあった「陸軍騎兵学校」や四街道の「陸軍野戦砲兵学校」などの話をしたように思います。兎に角詳しくてうんざりした事は憶えていますが、内容は興味がなかったので憶えていません。ただ当時の千葉地方は軍事施設が多く、軍人にとっては有名な地であったようです。
5)尚、親父は士官学校をでた元軍人で、満州軍の騎兵隊隊長(陸軍少佐)だったと聞いています。「陸軍騎兵学校」や「陸軍野戦砲兵学校」に来たことがあったかも知れません。それどころか、昭和初期の「陸軍野戦砲兵学校」は、情報隊や士官・幹部候補隊など25隊を擁する総合軍事学校に拡大していた様ですから(インターネットによる)親父が卒業したのは、ひょっとしたら此処だったかも知れません。
6)もし、親父がその時大砲の実射訓練をしていたならばですが・・・
 砲弾を打ち込んでる先に、将来自分の息子が住むことになろうとは、夢にも思わなかったでしょうね。

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