この町は終戦直後の昭和21年に入植が始まって以来、建国?60年になります。現在は穏やかで平和な町ですが、ここまで来るには壮大なドラマがありました。このページはそのドラマの資料や、その資料に係わるお話しを集めてご紹介するページです。(H18年8月末までに判った範囲)
 尚、このページは残されている資料と、入植一世の方や在住暦の永い人のお話しをベースに作成しましたが、情報提供者の記憶違いや取りまとめに誤りがあるかも知れません。誤りがあれば訂正しますので、ご連絡宜しくお願いします。(パソコン倶楽部)
この町の生い立ち
ページの作成にあたって
 参考にした資料
▼長谷川定房さん著「上志津原の生い立ち」
▼宮武孝吉さん著「上志津原の地名を探る」
▼「上志津原のあゆみ展」の展示史料
▼「上志津原たより」全号 (特に創刊号・300回記念号・326号の特集記事等)
写真や情報の提供を頂いた方々
●山下三好様ご夫妻様 ●宮武孝吉様 ●長谷川定房様 ●中山亜茂様 ●柄澤ヨシ様 ●斉藤恵子様 ●双葉会様  ありがとうございました
こんな町です「上志津原」
町の生い立ち
リニューアル(2006年4月)
改訂2006年9月
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この町の年表を辿って、苦難の歴史を個々にご紹介します
「上志津原の歩み」年表  1
年代(昭和) そ の 時 の 出  来  事 写 真 等(一部他と重複します)
明治→大正→
S20年8月
この町の近所は日本の砲兵術の生まれ育った所で、「日本砲兵揺籃の地」という史跡があります。「陸軍砲兵射的学校」があり、旅館や料理屋まである謂わば「射的学校の門前町」でした。その後この地域一帯は軍用地化され、旧陸軍の演習地として広漠とした草原に戻っていったのです。 詳細ページへ
20年8月15 太平洋戦争終結
20年11月 国策「旧軍用地の農地化」始まる。当地区にも入植のため視察   2
20年12月頃 下志津開拓団結成:先導したのは元航空隊・野砲学校の将校達でした。
 ※航 空 隊 とは:千葉市若松町にあった陸軍第五航空教育隊
 ※野砲学校とは:四街道にあった陸軍野戦砲兵学校
21年1月 入植始まる:(第1次入植者44名うち12名は間もなく離脱) 住むに家なし、起居地は旧陸軍第五航空教育隊の兵舎や西福寺などを転々としました。兵舎を解体した古材で合宿所を建てましたが、これが戦後上志津原に建てられた、最初の住宅です。 詳細ページへ
21年1月 下志津開拓団の分団として勝田分団結成:この分団がこの町の元祖です。この時の分団の区域は、今の上志津原全域と八千代市勝田の一部で面積は約130ha、分団の名称はこの勝田に由来します。後に勝田地区は八千代市に割譲された様で、現在の面積は約106haです。
21年4月 防風林の植樹始まる:入植者総出で松を植えました。 詳細は「遊歩道のこと」
21年5月 結婚第1号・・・越坂部潤三氏     3
21年5月 出産第1号・・・平野家(開拓にちなんで拓男と命名されました…現平野産業社長)
21年9月〜 初収穫(さつまいも):食料不足は深刻で野草は勿論、蛇や蛙(ヒキガエル)・更には軍需物資だった風船爆弾の糊の原料まで食べました。さつまいもが獲れて「これで生きていけると思った」ある入植者の述懐です。(食料に関する詳細ページへ
21年晩秋〜
22年春
個人住宅建設:(21年晩秋に始まって、22年春には全棟完成)・・・6畳1間・土間3坪の統一規格だった事と、簡便(粗末?)な造りだったため半年足らずで全棟完成しました。写真は保存されている当時の開拓住宅です。 詳細ページへ
この頃 勝田分団→勝田帰農組合に改称
23年春 電灯導入…当時電気を引くには、電柱・電線は自前で調達し、工事人夫を出すことも条件でした。派遣されてきた技術者の指示に従って、皆で電柱を立てました。
(写真は平山喜代子さんの開拓住宅。電柱の上にトランスが見えますが、ここで電圧を調整して上志津原に配電していました)
23年6月 火災第1号・・・明地宅(入植者の共同作業で直ぐ再建)
23年8月 勝田帰農組合→上志津開拓農業協同組合に(37戸)    4
24年4月 第2次入植…4名
25年 この地区の確定測量・・・この地が軍用地だったために公図は空白で、正規の道路は存在しませんでした。幹線道路以外は、開拓団の手によって整備されてきたのです。 
当時の道路事情と測量について・・・詳細ページへ
26年2月 記録的大雪…積雪40p
26年7月 国有開拓地払い下げ:1戸当り2町歩(畑・宅地、361坪=259円84銭 山林・原野、300坪=98円)    5
28年 この地区が登記され、上志津原になる(それまで印旛郡志津村上志津無番地でした)・・・上志津の一画から分離独立し、新しい地名を付けよういう協議の結果、一旦は『原』と決まりました。しかし上志津の長老達から、「上志津地区の出分なら『上志津新田』等と付けるもので単に『原』等怪しからん」 と許してくれませんでした。「長い名前は手紙を書くにも面倒」と反論したが、お世話になったてまえ逆らうわけにもいかず、結局『上志津原』に変更したそうです。
(以上は宮武孝吉さんが、山下保次さんにお聞きしたお話しでした)
29年11月 第1回運動会(原たよりの300回記念号に、第1回運動会はS25年になっていましたが、正しいのはS29年のようです)
開拓者の親睦と子供達のために始めました。それが50年以上たった今も続いているのです。・・・写真は開拓組合共有地(現在の児童公園)で始まった第1回運動会・・・詳細ページへ
30年2月 当時のお嫁入り風景
このハンドトラクターは、上志津原にはいった農業機械の第1号です。一鍬一鍬の入植から8年、エンジンの音高らかに晴れがましいお嫁入りだったと思います。(写真は早野家から明地家へのお嫁入り)
30年8月 第1回盆踊り大会の開催
32年 水が出た!・・・畑地潅漑用の井戸が完成
記念に集まった開拓の人々・・・S25年の「この地区の確定測量」の詳細ページを参照してください。(最下部)

この頃
(S30年台前半の現象だった様です)
おびただしい「ハエ」に悩まされました:この頃になると養豚や養鶏を専門に経営する農家が増えた事と、全国的な傾向として2〜3頭の豚や、10羽程度のニワトリを飼う農家が急増しました。出荷できない農産物や、家庭残飯の有効利用のために流行ったのです。サツマイモの産地だった上志津原は特に盛んで、その副産物に登場したのが「ハエ」でした。
 天井はハエがびっしり止まっていて真っ黒。「ゴマむすび」と思って近付いたら「塩むすび」だったり・・・。お客さんが来る日は家を締め切って
ガンマを散布し、死んだハエを掃きだしてから招き入れたそうです。それでも隙間だらけの開拓住宅ですから効果はいっときでした。(山下好さんのお話でした…尚、ガンマとはγーBHCの事で米国のリンデン社製の農薬だったと思われます)  6
39年3月 企業進出、光莫大小(メリヤス)創業:ここに働く人も大勢いましたし、町会のイベントの景品はこの会社からの寄贈が大部分でした。(東京オリンピックの年ですが、この時の全世帯数47戸)
40年3月〜 第1次宅地造成ラッシュ始まる・・・原団地・南原団地・八紘苑・商店街などから。造成地の分譲は38年ごろから始まり、40年ごろから住宅の建設が盛んになり、毎年40世帯程が転入しました。(写真は40年ごろの「原団地」)・・・(宅地造成に関する 詳細ページへ
40年 電話架設始まる(2台=60万円・・・当時一般架設地域外だったため)
42年4月 世帯数100戸を超える。(120戸)
44年
(「上志津原たより」の300号には40年になっていますが)
「佐倉市水道局志津浄水場」稼動:平成の初期頃まで、都市圏の水道では「佐倉市の水が一番」と言われていました。その理由はこの浄水場にくる原水が100%地下水で、又その井戸は上志津原にあったからです!?。 現在は地盤沈下問題などで揚水が規制され、湖沼の水を混ぜる事になって水質は落ちました。しかし他所に比べて地下水の割合は高く、水質ランクはまだ上位のようです。
45年4月 世帯数200戸になる:この年に上志津原が「市街化調整区域」に指定される
46年4月 「青年館」運営委員会設立:「青年館」とは上志津原開拓団の共有地に建てられた、自治会館の愛称です。竣工年月の記録が見当たりませんが、竣工と同時に運営委員会が設立されたようです。平成9年まで町会自治の中心でしたが、現在は同じ場所に建て替えられた「はらトピア」代わりました。
47年7月 盆踊り櫓完成
47年8月 拓親会設立:開拓組合解散
48年3月 幹線道路舗装開始:上志津原交差点より勝田川まで
48年4月 世帯数300戸を超える。(305戸)
48年5月 「上志津原たより」創刊当時は長谷川定房さんが主宰するボランティアでした。創刊号に載せられた当時町会長の山下三好さんの挨拶記事によると、「上志津原はまとまっていいなあと言われていますが、近頃は知らぬ同士が沢山になり解り難いこともあります」と書かれていますので、急増した新住民と理解しあうために創刊されたようです。右はその創刊号の写真ですが、部数300余、青インクのガリ版印刷で始まり、49年8月号からタイプ印刷になっています。
尚、長谷川さん主宰のボランティアは52年6月号(通算44号)まで続き、7月号から町会の広報係が引き継いでいます。
48年6月 上志津原子ども会設立
48年10月 『市営上志津原グランド』開設:(現斉藤石油裏) 『上志津原たより』第11号(49年3月号)によると、野球用のバックネットと、一部柵を設けた広さ7,000uのグランドだったようです。
49年4月 南志津小学校開校角栄団地・上志津原の生徒増により下志津小学校が満杯、急遽造られた学校でした。建設用地が市議会で承認されたのが48年8月29日ですので、開校まで猛スピードで進んだようです。余程切羽詰った状況だったのでしょう。
50年11月 双葉会設立
53年4月 世帯数400戸超(405戸)
54年3月 公衆便所建設:上志津原十字路近くの、「ふれあいどおり」の入口にある便所ですが、当時ここがバスターミナルだったために建設されたものです。佐倉市で公園以外にある公衆便所は此処だけだそうで、今後修理や改修はしないようですので何年か先には解体・撤去されます。
54年4月 原グランド開設:現在の「町営原グランド」です。
56年11月 第1回スポーツ大会      7
61年7月 上志津四区と防災姉妹地区締結
62年3月 「上志津原のあゆみ展」:61年度の町会が主催して、青年館で開催されました。この展示会は「千葉日報」や「広報さくら」で大きく報道されました。・・・(あゆみ展の詳細ページへ
以後平成
元年8月
盆踊り櫓更新:(現在のものに)その年の「上志津原たより」8月号の「盆踊り大会収支明細表」によると、この櫓新設工事代が120万円。その費用は「櫓新規製作特別寄付」を募ったようで、集まった寄付金733,000円、又8月4・5日に計画された盆踊り大会は、雨のため5日は中止されましたが、1日だけで集まったご祝儀951,000円。寄付と祝儀でできた櫓のようです。
2年4月 世帯数500戸を超える。(515戸)
3年 志津南クリニック開業
6年11月 上志津原自治会館建設委員会設立
7年4月〜 自治会館建設負担金徴収開始        
9年11月 自治会館竣工:その愛称「はらトピア」になる
自治会の変遷:昭和29年頃は開拓組合が自治会そのものでした。現森本水道前の国有防風林に、開拓組合の「スイカの集荷場」があり、ここが「集会場」を兼ねていました。その後この「集荷場」は、建物のまま幹線道路を引っ張って(コロに載せて)、昔の瀬田商店前の砂利置き場(現小森商店前の駐車場)に移したそうです。昭和46年頃に「青年館」が建ち、そして平成9年に「はらトピア」に建て替えられたのです】
10年2月
11年9月
防風林遊歩道設備事業開始:詳細は「遊歩道のこと」
同遊歩道完成・・・広報佐倉で愛称募集「上志津原ふれあいどおり」に決定
17年6月〜 第2次宅地造成ラッシュ始まる:南中野団地・ひばりが丘団地(いずれも仮称)他多数
17年11月 「原まちづくり委員会」設立:目的は転入者の地域融合に向けた作業や、健全な町づくりの推進・・・詳細は「町会のページ」-5を参照   
18年6月 新班誕生新造成の2つの団地が町会に加入、班名は「光ヶ丘班」と「栗林2班」に
19年1月 世帯数600戸を超える。(606戸)
最後まで見ていただきましてありがとうございました。
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