こんな町です「上志津原」
この町の生い立ち 更新・・・2013年4月6日
【開拓の町上志津原】 
 この町は、国策(旧陸軍演習地の農地化)に端を発する開拓の町です。現在は宅地化も進み、何処にでもある穏やかな郊外の町ですが、ここまでの道程は険しく、壮大な開拓ドラマであったようです。
 ドラマの始まりは終戦翌年の昭和21年、従って建国?60数年になりますが、年々そのドラマの主人公(開拓一世)が少なくなってきています。このページは、今のうちにそのドラマを振り返り、先人達の想い・苦労の様子を後生に残しておこうというものです。 (はらCoCoくらぶ パソコン部会 M)
作成にあたって参考にした資料
◆著書「上志津原の生い立ち」 著者:長谷川定房さん(開拓一世)
◆著書「上志津原の地名を探る」 著者:宮武 孝吉さん(郷土史家)
◆写真等「上志津原のあゆみ展」 南志津小保管の展示史料
◆町会広報紙「上志津原たより」 300回記念号・326号の特集記事など
 左記資料のほか、開拓一世の方々などのお話をベースに作成しましたが、情報提供者の記憶違いや、まとめ方に誤りがあるかも知れません。
 お気づきの点があればご連絡を宜しくお願いします。


上志津原のあゆみ(年表) 1
年 代 そ の 時 の 出 来 事
幕末→明治→大正→昭和→軍用地になるまで この付近が陸軍の演習場になる前、お隣の下志津原は凄いところでした。
現在は、佐倉市の中で最も閑静な下志津原地区ですが、その昔は日本の砲兵術のメッカだったのです。 四街道まで延びる大砲の射的場があって、陸軍砲兵射的学校があって、周りは旅館や料理屋まである繁華街だった・・・。今の閑散とした状況からは信じられない光景だったようです。此処から数100mしか離れていない我が上志津原も、その郊外として家並み等があったかも知れません。
史跡「日本砲兵揺籃の地」の詳細ページへ
昭20年8月15 太平洋戦争終結 2

昭和20年11月 旧軍用地の農地化が始まり、視察団が訪れる。・・・終戦後、深刻な食料不足対策と、旧軍人の働き場所をつくる国策でした。
昭20年12月頃 下志津開拓団結成・・・先導したのは四街道にあった「陸軍野戦砲兵学校」と、千葉若松町にあった「陸軍第五航空教育隊」の、元将校たちでした。
昭和21年1月 入植始まる・・・北は新潟、南は沖縄、入植者は全国から集まりました。(地元千葉県からは1名) 但し住むに家なし、起居地は元「陸軍第五航空教育隊の兵舎」や上志津の西福寺などを転々としました。
(生活環境が厳しく、離脱者も相次ぎました)

3月に合宿所建設(建物第1号)・・・入植者は元兵舎を解体した古材で、自分たちの手で合宿所を建てました。これが戦後上志津原に建った最初の建物です。  【詳細ページへ
合宿所(これでも新築です)
昭和21年1月 下志津開拓団の「勝田分団」結成・・・この分団がこの町の元祖です。この時の分団の区域は今の上志津原全域と、今の八千代市勝田の一部で総面積は約130ha、分団の名称はこの勝田に由来します。(後に勝田地区は八千代市に割譲され、現在の面積は約106haです)
昭和21年4月 防風林の植樹・・・国は開拓地の幹線道路沿いの幅10間を「国有の防風林用地」とし、植樹からそこの管理まで、当該地区の開拓団に任せました。入植者総出で植えたのは「松」でしたが、上志津原はこの時以来、他の開拓団以上に防風林との繋がりを深めるのです。(詳細はその3「遊歩道のこと」に) 3

昭和21年5月 結婚第1号(越坂部潤三さん)・・・入植者の半数以上は独身の男性でした。

出産第1号(平野家)・・・
開拓にちなんで「拓男」と命名されました。現在は平野産業の社長です。
昭和21年9月 サツマイモ初収穫・・・国の開拓事業を入植者が請け負う形でしたので米の配給はありました。但し開墾の重労働にはとても足りる量ではなく、野草は勿論蛇や蛙まで食べました。サツマイモが獲れて「これで生きていける」と思ったそうです。4
詳細ページへ

昭和21年11月頃〜22年春 開拓(個人)住宅建設・・・一人の大工の指導の下、開拓者全員が力をあわせて造りました。全て統一規格の小さな家(6畳1間と土間3坪)だった事と、マイホーム願望が強く、半年足らずで入植者全員の住宅が完成しました。外壁は鎧戸に打ち付けた板1枚のみ、冬は布団に雪が積もるほどの住宅でしたが、我が家が出来た喜びはひとしおだったそうです。
詳細ページへ
開拓(個人)住宅
昭和22年頃 下志津開拓団「勝田分団」、勝田帰農組合に改称  (この頃の世帯数:34世帯)  5
昭和23年春 電灯がひかれる・・・当時電気をひくには、電柱と電線は自前で調達し、工事には人夫を出すことが条件でした。派遣されてきた技術者の下に入植者総出の工事でした。
 写真は開拓住宅脇に立てられた、トランスの載った電柱です。ここ (平山喜代子さんの開拓住宅)で電圧を調整して、上志津原中に配電していました。
昭和23年6月 火災第1号・・・(明地さんの開拓住宅)入植者の協力ですぐに再建される。
昭和23年8月 勝田帰農組合、上志津開拓農業協同組合に改称・・・この時の世帯数37戸

昭和24年4月 第2次入植者(4名入植)・・・世帯数41戸に
昭和25年 確定測量実施される・・・この地一帯が軍用地だったため、公図は空白で正規の道路は存在しませんでした。当時の道路事情は最悪で、「原に入り込むと2度と出られない」と揶揄されていたそうです。幹線道路以外の道路(農道など)は、入植者によって造られていきました。詳細ページへ
昭和26年2月 記録的大雪・・・積雪40cm
昭和26年7月 開拓地の払い下げ・・・入植者は開墾を請け負う形でしたが、自分の農地にすることが出来たのです。
 (1戸当り2町歩 畑・宅地361坪=259円84銭 山林・原野300坪=98円・・・という記録がありました)
6

昭和28年 上志津原誕生(開拓地の登記)・・・それまで「印旛郡志津村上志津無番地」でした。この際上志津の一画からも独立し、新しい地名を付ける協議をしました。
 結果
『原』と決まりましたが、上志津の長老たちから上志津の出分なら『上志津新田』などと付けるもので、単に『原』などけしからん」と、許してくれませんでした。
「長い地名は手紙を書くにも面倒」と反論しましたが、お世話になった手前逆らうわけにもいかず、結局
『上志津原』に変更したそうです。(以上は宮武孝吉さんが、開拓一世の山下保次さんにお聞きしたお話です)
昭和28年4月 上志津原町会発足・・・それまでは「上志津町会」に所属していました。 尚、この頃の集会は森本水道前の暴風林にあった、「開拓組合のスイカの集荷場」を使っていました。
昭和29年
 11月23日
第一回運動会開催・・・開拓者仲間の親睦と、子供たちのために始めました。開催場所は将来協同墓地にしようと確保していた開拓組合の共有地で、今の児童公園です。(以上は故人になられましたが開拓一世の山下三好さんのお話です)
 この年は佐倉が市になった年でもありますが、こんな歴史のある町会運動会も珍しいでしょう。詳細ページへ

昭和30年2月 ハンドトラクターでお嫁入り・・・このハンドトラクターは、上志津原に入った農業機械の第1号です。一鍬一鍬の入植から苦節9年、エンジンの音高らかに、晴れがましいお嫁入りだったと思います。
(写真は早野家から明地家へのお嫁入りのようすですが、後ろの茂みは、植えて8〜9年の防風林の松林のようです)
昭和30年8月 第一回盆踊り大会開催・・・初めての運動会の翌年には初めての盆踊り大会。人々に余裕が出てきたことが伺えます。それにしてもこの頃の世帯数は40そこそこでした。みんなでやってみんなで盛り上がる、家族のような集落だったと思われます。
昭和32年 畑地灌漑用井戸の完成・・・昭和25年:確定測量の詳細ページに
昭和30年台の前半
蝿(ハエ)大発生・・・専業の養豚や養鶏農家が増えた事と、全国的な傾向として2〜3頭の豚や10羽程度のニワトリを飼う農家も急増しました。サツマイモの産地になっていた上志津原は特に盛んで、その副産物として登場したのがハエでした。
 天井はハエがびっしりとまって真っ黒、ゴマむすびと思って手を出したら塩むすびだったり・・・。「お客さんが来る日はガンマを散布し、死んだハエを掃きだしてから迎えました。」「それでも隙間だらけの開拓住宅、効果は一時でした。」
・・・(以上は山下 好さんのお話でした。尚ガンマとは農薬のBHC粉剤のことです。米国のリンデン社製のものは、殺虫効果の高い γ(ガンマー)態BHCの含有率が高く、同社製のBHCを特にガンマと呼んでいたようです)7
昭和39年冬? 桜の植樹・・・市制10周年を記念して、佐倉市の呼びかけに応えて植えたものです。

昭和39年3月 光莫大小(ヒカリメリヤス)創業・・・町にきた初の企業でした。この会社の貢献は大きく、ここに勤める人も大勢いましたし、町会イベントの景品はこの会社からの寄贈が大部分でした。
昭和39年〜 宅地造成ラッシュ・・・38年頃から原団地・南原団地・八紘苑・商店街などから造成が始まりました。この年の10月に東京オリンピックが開催されましたが、これを機に宅地化の波が押し寄せます。昭和39年時点での世帯数はまだ47戸でしたが・・・

住宅建設ラッシュ・・・
建築ラッシュが始まったのは翌40年頃からで、ここから毎年40世帯程の転入が続きました。
詳細ページへ
原団地の住宅建設
昭和40年 電話架設始まる・・・2台:40万円(当時は一般架設地域外だったため)

昭和42年4月 世帯数急増100戸超(120戸)
昭和44年
(上志津原たより
300号には、40年に稼働となっていますが、44年が正しいようです。)
佐倉市水道局志津浄水場稼働開始・・・平成の初めまで首都圏の水道の水質は佐倉が一番だったようです。その訳は原水が100%地下水だったからで、ここ上志津原にも数カ所揚水井戸があります。
 但し現在は地盤沈下問題などで揚水が規制され、利根川や印旛沼からも取水しているようで、水質は落ちました。それでもまだ水質ランクは上位のようです。
昭和45年4月 世帯数200戸になる・・・この年に上志津原が「市街化調整区域」指定される。

昭和46年4月 「青年館」竣工・・・青年館とは町会自治会館の愛称です。昭和29年頃は開拓組合が自治会そのもので、集会場は現森本水道前の防風林にあった、「スイカの集荷場」を使っていました。
 その後この集荷場は、当時の瀬田商店前(上志津原十字路の駐車場)に運ばれ、集荷場兼集会場として長い間使われていました。(建物ごとコロに乗せて移動したのです)
青年館の竣工で、町会専用の自治会館が誕生したわけです。
青年館
昭和47年7月 盆踊り櫓完成・・・盆踊りは昭和30年から始まっていますが、その頃櫓があったかどうか判然としません。これが初代の櫓かも知れません。
昭和47年8月 開拓組合解散 拓親会設立・・・
昭和48年3月 幹線道路舗装工事・・・最初は上志津原十字路から勝田川まで
昭和48年4月 世帯数300戸を超える・・・305戸
昭和48年4月 上志津中学校開校・・・それまで志津中学校に通ってました。

昭和48年5月 「上志津原たより」創刊・・・当時の町会広報紙は、長谷川さん主宰のボランティアで発行されていました。この創刊号に載せられた町会長の山下三好さん(開拓一世:故人)の挨拶によると、「上志津原はまとまって良いなあと言われますが、近頃は知らぬ同士が沢山になり、分かり難いこともあります」と書かれていますので、急増した新住民と理解融合するために創刊されたようです。
 当時は部数300余、青インクのガリ版でした。主宰者の長谷川さんは開拓一世ですが、部員の多くは新住民だったようで、こうした事も融合につながった様です。尚、ボランティアでの発行は52年6月号(通算44号)まで続き、7月号から町会の広報係が引き継いでいます。
「上志津原たより」創刊号
昭和48年6月 上志津原 子供会設立
昭和48年10月 市営上志津原グランド開設・・・グランドの場所は「斉藤石油」の裏手、現在の集合住宅「パッシィオーネ」あたりです。今の「原グランド」が54年に開設していますので、町会の運動会はそれまでここで開催されたようです。
昭和49年4月 南志津小学校開校・・・小学校の建設用地が市議会で承認されたのが、48年の8月29日という記録がありました。それから半年少々で開校されていますので、(上志津原の子供たちも通う)下志津小学校の状況が余程切羽詰まっていたのでしょう。上志津原の世帯数増加が、新学校につながったようです。
昭和50年4月 少年野球「スターズ」発足・・・平成10年12月、中志津と合併して「ツインズ」で再発足
昭和50年11月 双葉会設立・・・双葉会は熟年者の楽しみ・生き甲斐をサポートする会です。入植からほぼ30年、開拓一世の方々はその領域になられたのです。
昭和53年4月 世帯数400戸を超える(405戸)・・・

昭和54年3月 公衆便所建設・・・上志津原十字路近く、遊歩道「上志津原ふれあいどおり」の西コース入り口にあるトイレです。当時バスのターミナルだったために、住民の要望で造られたもののようですが、佐倉市で公園以外にある公衆便所は此処だけだそうです。
 今後は修理や改修はしないそうで、壊れたら解体撤去されます。「出来るだけ長持ちさせたい」・・・。H21年11月、町会班長さんによる大掃除も始まりました。(普段手の届かない雨樋掃除など)
公衆便所
昭和54年4月 「原グランド」開設・・・出来たばかりの市営グランドを廃止し、新たに町営の原グランドを造った理由は分かりません。「原グランド」は、運動会など町会のイベントはもちろん、双葉会のゲートボール・少年野球の「ツインズ」・草野球?の「キングスターズ」や「エンドレス」のホームグランドとして活用されています。
昭56年11月 第1回スポーツ大会・・・運動会・盆踊りに続いて三つ目の町会イベントになります。「どんなスポーツをするかは時の町会が決める」という筈でしたが、最近はグランドゴルフが続いています。 8
昭和61年7月 上志津四区と「防災姉妹地区」締結

昭和62年3月 「上志津原のあゆみ展」開催・・・この町が辿ってきた歴史を振り返る展示会が、昭和61年度町会によって開催され、大勢の町民で賑わいました。(開催場所:自治会館「青年館」)

 軍用地だった時代の砲弾や開拓者が使った農具や生活の写真などが展示され、「千葉日報」や「広報佐倉」でも大きく報道されました。
あゆみ展の様子は
詳細ページへ
上志津原のあゆみ展

平成元年8月 盆踊りの櫓更新・・・初代?の櫓から15〜6年で更新ですので、更新前は木製だったかも知れません。
 この年の「盆踊り収支明細表」によると、櫓の新設工事代が120万円。費用の捻出に「櫓新規制作特別寄付」を募った様で、集まった寄付金73万3千円。更にその年の盆踊りは雨で1日だけでしたが、集まったご祝儀95万1千円。寄付とご祝儀で出来た櫓の様です。尚、この櫓は今でも健在です。
平成2年4月 防風林(現ふれあいどおり)、国から佐倉市に移管
世帯数500戸を超える(515戸)
平成3年 志津南クリニック開業

平成6年11月 平成2年4月上志津原自治会館建設委員会設立・・・「青年館」の更新に向けて
平成7年4月 自治会館建設負担金、徴収開始
平成9年11月 新自治会館竣工・・・今までの自治会館「青年館」が、手狭になった事と老朽化のため解体撤去され、新たに建て替えられたものです。

愛称は「はらトピア」です・・・
町会行事などがない場合は(空いていれば)、部屋単位で借りることが出来ます。
(毎月第1土18時からはらトピアで予約を受けています。・・・自治会館運営委員会)
9

平成11年9月 遊歩道「上志津原ふれあいどおり」完成・・・平成10年2月に「防風林遊歩道設備事業」として着工していた工事が完成したものです。開拓者が44年間守り抜いた防風林の中を、一本の舗装された小道が通ったのです。佐倉市の広報紙「広報さくら」で愛称を公募、「上志津原ふれあいどおり」に命名されました
 詳細は『ふれあいどおりのこと』
平成15年12月 特別養護老人ホーム「ゆたか苑」開設
平成17年〜 第二次宅地造成ラッシュ・・・東京オリンピック(昭和39年)の頃に第一次造成ラッシュがありました。その後「市街化調整区域」に指定されましたので、住宅建設は収まっていました。今回のラッシュは政府による規制緩和によるもので、「市街化調整区域」という規制が一時的に緩和されたのです。
平成17年11月 「原まちづくり委員会」設立・・・造成ラッシュに伴い工事などによるトラブルが多発しました。また、新しくできた団地へ入居された方々の、町会加入も課題です。こうした課題は、年度をまたいで継続する場合が大半で、現在の町会のシステムで対応するのは無理があります。(町会の任期は1年で年度ごとに総交代する)そこで町会役員経験者を中心に組織されたのが、「原まちづくり委員会」です。
平成18年11月 町会に新班誕生・・・造成ラッシュによって二つの戸建て団地が誕生、ホボ入居が完了した時点で、上志津原を案内する説明会を開催しました。(「原まちづくり委員会」主催)
この時の説明会で @町会に加入すること A団地それぞれが、町会の一つの班を構成すること B新班の名称は「光が丘班」及び「栗林2班」とすること が決まったのです。

2007年
平成19年1月
世帯数600戸を超える(606戸)
平成19年11月 「はらトピア フェスタ 2007」開催・・・はらトピアの開館10周年を記念して行われた文化祭です。23日と24日はこの町の芸術系サークルの作品展や町の歴史資料展などが、25日は記念式典の後演芸系サークルの発表会が行われました。児童公園では「森の茶屋」「模擬店」「豚汁店」それにフリーマーケットなどで賑わい、上志津原が燃えた3日間でした。
 尚、3日間の様子は、常時webカメラでライブ中継していましたので、オーストラリアの娘さんから会場のお母さんに「今見てるよ〜」の携帯があり、早速お母さんにカメラを向け「お母さんも元気よ〜」と、インターネットを通じて交信する一幕もありました。また、CATV296からも取材があり、後日放映されました。
詳しくは「町会のページ-27・28」へ
ライブ中継画面
平成19年12月 町会長選考方法の改革・・・今まで毎年互選で決められていましたが、(実際はクジ引き)問題があり過ぎるとして次の様に改革しました。町会長の任期を複数年とし、改選前になったら町会長候補選考委員会を組織し選考します。選考委員会のメンバーは、各種委員会・団体の長または長が推薦する者です。 選考会議の結果、初代に池田三知子氏が選ばれ、平成20年4月に就任することになりました。
平成19年12月 上志津原がテレビの特集番組に・・・番組のタイトルは「開拓の町上志津原」で、切っ掛けは「フェスタ2007」の取材中、このページ(この町の生い立ち)を見て特集番組にしたようでした。従って番組を作るにあたっては、パソコン倶楽部の3人(宮武・中山・松田)が協力しました。
 尚、「はらトピア フェスタ 2007」の様子も、その中で一緒に紹介されました。
※番組のDVDはトップページから視聴できます

2008年
平成20年4月
世帯数800戸を超える(838戸)
平成20年7月 ▼「市民協働事業」へ参加・・・公共の利益を目的とする「町づくり活動」で、佐倉市がバックアップする事業です。当町も参加することを決め、「原まちづくり委員会」が先導して、「総合的な町づくり活動」をするボランティアを募りました。
▼「はらCoCoくらぶ」設立
・・・
色んな分野のボランティアが集まりましたが、その連合体を「はらCoCoくらぶ」と命名。
平成20年8月 子供キャンプ再開・・・長い間行われていませんでしたが、イベント部会が復活しました。
平成20年9月 敬老会「はらトピア」で単独開催・・・今まで南小体育館で地区社協合同の敬老会でしたが、原ブロック独自の活動が認められ、上志津原は単独で「はらトピア」で開催するようになりました。
平成20年12月 活動がテレビで紹介される・・・「はらCoCoくらぶ」のうち「ふれあいどおり部会」の活動(遊歩道の保全)が、テレビで紹介されました。(CATV296 収録11月29日 放映20年12月1〜7日)
餅つき大会開催・・・防災訓練後のアフターイベントとして開催しました。

平成21年5月 地区社協原ブロック主催「ウオークラリー」初開催・・・地区社協 原ブロック独自の活動が認められて、ユニークなイベントを積極的に開催しています。
平成21年8月 イベント部会主催 「子供神輿」 町内を初めて巡行・・・盆踊り大会の2日目の午後、ワッショイ ワッショイが町内を練り歩きました。神輿は段ボール、飾りつけは子供達の手作りでした。
2010年
平成22年4月
世帯数900戸を超える(926戸)
平成22年10月 まちづくり委員会 淑徳大学のシンポジウムに招聘・・・同大学で「上志津原のまちづくり」を紹介し注目を浴びました。行政からは評価されているところですが、大学からも上志津原は「地域活性化の手本」と評価されているようです。
平成24年12月 平成23〜24年 最後の新班誕生(南ヶ丘1〜3班)
世帯数1,000戸を超える(1,016戸)・・・上志津原たより375号より

トップに戻る ホームに戻る


inserted by FC2 system