この町の生い立ち
開拓住宅の建設
初版…2006年4月 改訂…2012年2月


開拓住宅の建設
1)個人住宅の第1号は新居でした
 昭和21年の3月頃、3棟の合宿所を建てましたが、4月中旬には個人住宅の第1号が完成しています。但しこの住宅は特別措置で、5月に結婚する予定だった越坂部潤三さんの新居を、入植者仲間の心意気で特別に(早く)建ててあげたという事のようです。
2)その新居は教会のようでした
 第1号の新居は、ルーフィング張りのトンガリ屋根だったようで、「まるで教会のようだ」と言われていたそうです。その住宅は残っていませんが、後から建てた統一規格の住宅とは明らかに違っていたようで、その時はまだ統一規格を決めていなかったと思われます。
3)本格的な個人住宅建設は21年秋から始まりました
 おそらく収穫(サツマイモ)が終わり、農作業が1段落してからだったと思われます。それにしても翌春には全戸完成していますので、素人仕事にしては驚くほどの早さです。小さな家だったことと、新天地でのマイホーム願望が強かったため頑張れたのでしょう。
4)その後の住宅は全戸統一規格でした
 右の「開拓住宅」の説明書きを見て下さい。統一規格は、建坪7坪、6畳一間と言うんでしょうね。小さくて単純構造だったようです。材料も腕前も不十分で、居住性は最悪だったようです。
尚、別の資料によると「一部の人は材料の割り当てを受け、独自の住宅を建設した」とありますので、全部が統一規格ではなかったようです。
5)開拓住宅逸話
@朝起きたら、布団の上にうっすらと雪が積もっていました。
A碁を打っていたら、吹き込んできた雪が碁盤の上を走り回り…あま りの寒さに碁を止めました。
B夏、節穴から星の瞬きが見え、風情抜群でした。
Cゴマむすびと思って手を出したら、(ハエが飛び去って)塩むすびでし た。


開拓住宅の建設
個人で持っておられた古い写真です
資料には平山家の撮影年は22年になっていましたが、電柱にトランスが載っていますので、電気を引いた昭和23年ごろと思われます。
撮影:S23年? 平山喜代子家 撮影:S33年夏 山下 好家
昭和62年「上志津原のあゆみ展」に撮られた写真です。
屋根は当初ルーフィング葺きでしたが、築40年経っていますのでトタンやスレートに葺き替えられています。また、一番右は増改築してあります。

以上の写真・資料は昭和62年に開催された「上志津原のあゆみ展」に展示されたものです。展示後、資料類は上志津中学に寄贈され、同中学では史料室に展示してありました。ここに掲示したものは、史料室に展示してあったものをデジカメで撮ったものです。

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昭和51年の投稿記事
「上志津原たより」第35号 …昭和51年3月号… に載っていた投稿記事を紹介します。当時の住宅の様子・道路事情、そして生活の風情が垣間見えますので、少々長いですが全文を掲載します。

       夕 立 ち
          開拓挿話その2

 たしか昭和24〜5年頃だったと思う。とにかく開拓の初期で、それでもわが巣のあばら家は、拓いた土地でかこまれていた。隙間だらけの羽目板から、食事中の御飯をきな粉めしにするする程の春一番のほこり風が入り、又夜は内壁なしの羽目板の節穴より、真ん丸の十五夜お月様を目を真ん丸にして眺めたものである。冬は、まれにあった吹雪の時に、布団の上に数センチ積もったことがあった。しかし苦あれば楽あり、夏の夜はあけっ放しの天然クーラー、地獄、極楽はどこでも共存しているらしい。

 その夏の午後のひと時、行水をして汗、ほこりを流していた。今と違って男をのぞくような女性はいなかったので、庭の中央で泰然自若と水を使っていた。それ以前から入道雲が坊主頭をふりかぶって現れていたが、やがて物凄い勢いで発達し、パラパラと来るや間を置かず、地鳴りにも似た音を立てて顔を上げられぬ程の土砂降りとなった。行水には丁度よいと思ったが、フト、畑を見ると、乾き切って元気のなかった里芋の葉が久しぶりの恋人に逢えたときのように喜んでいるように見えた。

 西手の高みから、道路を伝って流れてくる雨水は、牛馬車のわだちの跡に沿って東手へと過ぎ去っていく。よしこの水を里芋にやろうと決心すると、手拭を腰に巻いて立ち上がる。当時砂利の入っていなかった道路は簡単に掘れる。まず里芋畑の土手に道路を横切って溝を掘り、その溝に入った雨水を、里芋畑に入れ一畦おき毎に誘導していた。
「浮気女と夕立はしばし濡らして消えて行く」
やがて雨は小止みとなり、青空も見えてきた。しかし高みから流れてくる水はしばし続き、自分も少しでも多くの水をと畑で作業を続けていた。

 何かの気配に、フト気付いて道路上を見ると、どこで雨宿りしていたか、かなり年配のおばさんが二人、田んぼの方へ向かって歩いてきた。恐らく田の見回りだろう。殆ど裸の私を見てニヤニヤしながら通り過ぎようとした。私も作業を続けようと片足を踏み出そうとしたとたん、腰に巻いた手拭がパラリではなく、ぬれていたのでヅルリと落ちた。アッと驚く為五郎所ではない。まだ年若かった私は前に手をやり、大きくなっていた里芋の葉陰にかくれた。水の処理で夢中になり、背中で結んでいた一重結びがほどけそうになっていたのに気付かなかったのである。

 あのおばさん達は上志津の人に違いないが、名も顔も今となっては思い出すよすがもない。もう相当の老人になっている訳だが、生きていれば茶の間で、失礼ながら亡くなっていれば天国で、原の○○はよう、素っ裸でようと、思い出しては笑いあっている事だろう。それにしても雷の記憶がないのが不思議である。
  正に上志津原裸族の一瞬の体験記のお粗末。  OH生

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