この町の生い立ち
宅地造成
初版…2007年4月 改訂…2012年2月
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第1次 宅地造成ラッシュ
それは東京オリンピック以後の、高度経済成長期に始まりました
 一時50を超えた入植世帯数が、(1年経って)昭和22年までに残った34世帯からスタートした町です。それから17年後の昭和39年(東京五輪の年)の世帯数はまだ47戸でしたが、時はまさに高度経済成長期、この頃から宅地造成ラッシュが始まって世帯数が急増しました。それからの7〜8年で300戸超、6倍以上になったのです。

昭和38年頃  分譲地の売り出し
 広告塔は「南志津分譲地」ですが、この当たりが通称「原」と呼ばれていましたので、後に「原団地」となりました。

昭和40年頃  建設が始まった「原団地」
 この頃、南原・商店街・八紘苑・丸十団地(現在の新栄台)・玉木などが造成されています。

宅地造成ラッシュは「市街化調整区域」になった事で一旦は止まりました。
 上の写真から5年後の昭和45年、理由は分かりませんが上志津原が「市街化調整区域」に指定されたのです。
従って、以後暫らくの間大規模宅地造成はなくなり、世帯数の増加も非常に緩慢になりました。
 右の立て看板は、中央フーズから南に行った道路わきに今も立っています。(H18/3/4写)


第2次 宅地造成ラッシュ
それは政府の規制緩和政策によって始まりました
 平成17年に始まった規制緩和は、事実上「市街化調整区域の一時棚上げ」でした。上志津原全域が宅地造成可能となって、第2次の造成ラッシュが始まったのです。この規制緩和は平成22年までの5年間の時限立法でしたが、上志津原地区の住宅需要は高く、この間に4〜500戸の増築になりそうです。

第2次の造成ラッシュの特徴は、初めて集合住宅が出現した事です。
 集合住宅(パッシィ オーネ)
 集合住宅(ハーモニィ コート)

とは言っても圧倒的に多いのは戸建て住宅です。
 戸建て住宅…栗林2班  戸建て住宅…2組東班
 戸建て住宅…さくら台班 最後の造成地(戸建て61戸建設予定…H23.3.15撮)

と言う訳で、再び「市街化調整区域」が発効し宅地造成は終わりました。世帯数は平成23年度末には900戸を突破していましたが、建物はこれからという所もありますので、24年度中には1,000戸を超えるでしょう。

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