この町の生い立ち
当時の食料事情
改訂:2007年5月  2012年2月



入植直後の食料事情は深刻でした
米の配給はありましたが
終戦直後の日本は深刻な食糧難でした。軍用地の農地化は、事業主は国、開拓は入植者が請け負う形で進められ、入植者には食料の配給がありました。但しその量は1日米2合1勺(0.478g)だけでした。

開拓はひもじさとの戦いでした
現在のように「おかず」が十分あっての2合1勺は、まずまずの量ですが農業機械もなく、1鍬1鍬の開墾作業では想像を絶するひもじさだったようです。
 入植者は概ね裸一貫でしたから自力で買い求める事はできなかったのです。

食料事情を救ったのは「ワラビ」でした
ワラビだけは至る所に生えており、その時期には10分間で1〜2kg採れたそうです。また「キノコ(ハツタケ)はご馳走だった」と、当時小学校だった長谷川明房さんが話しておられましたが、キノコ・野草は重要な食料でした。

蛇や蛙も食べました
入植者の山下三好さん(故人)が「ヒキガエルは皮をむいて焼くと美味いものでした」や「この辺にシマヘビが居ないのは、その頃に食ってしまったからだ」と話され大笑いした事がありました。
こうした小動物は貴重な蛋白源だったようです。

軍用物資(こんにゃく粉)配給
資料によると、戦時中「風船爆弾」の糊の原料だったこんにゃく粉が放出され、「一刻腹とはいえ大いに喜んだ」とありました。
 山下さんは「あれは水を加えると幾らでも増えたなあ」と仰っていましたが、「腹が膨れればソコソコ幸せ」だった時代ですから、大量の水でボリュームを増やしたようです。
風船爆弾・・・ウイキペディアより

 風船爆弾は、和紙とコンニャク糊で作った気球に水素を詰め、大気高層のジェット気流に乗せてアメリカ本土を攻撃しようとする兵器である。

 満州事変後の昭和8年(1933年)頃から関東軍、陸軍によって対ソ連の宣伝ビラ配布用として研究され、昭和19年(1944年)に風船爆弾として実用化された。

サツマイモで腹の虫が治まりました
入植後、待望の初収穫はサツマイモでした。「でんぷん質偏重ではあったが、やっと腹の虫を抑える事ができた」と資料にあります。
 何方かが「これで生きていけると思った」と、当時を述懐されていましたが、聞いていてグッとくるお話でした。
そしてサツマイモはドル箱になりました
このサツマイモは、入植者の飢餓を救ったと同時に、澱粉の原料として開拓団のドル箱になりました。すなわち開拓が軌道に乗った重要な農産物だったのです。
平山喜代子さん(絵の同好会)の作品
平山さんは入植一世の方です。

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