この町の生い立ち
道路事情変遷と開拓団の測量
初版…2006年4月 改訂…2012年2月



上志津原の道路事情変遷と、開拓団の測量

1)道路は迷路のようでした
▲軍用地だった時分は…(軍用地に)買い上げ前にあった市町村道をそのまま利用し、射撃訓練の無いときは軍用地を横切って往来していたようです。ただ整備・補修は全く行われず「水が溜まると別なところが道になる」の繰り返しでした。
▲開拓が始まっても…生活道路になった筈ですが、暫らくは同じ状態が続きました。「草原とは言っても、草丈は自分の背丈以上だった」と当時小学生だった長谷川明房さんが仰っていましたから、見通しの利かない迷路のような道だったようです。
▼長谷川定房さんの著書(上志津原の生い立ち)には「夕方四街道を出て志津へ来るのに、いつの間にか千葉市や八千代市を歩いていたことがありました」とあり

▼山下さんのお話では「原に入り込むと2度と出られない」と、近隣の人達に揶揄されていたそうです。
2)入植者の手で道路を造りました
現在の道路は同じ形に整然と区画されています。こうなった経緯を山下さんに聴きました。
「幹線道路以外は入植者の手によって造りました」
「区画が同じ形になっているのは、みな100間(180b)×60間(108b)にしたからで、面積は2町歩(2ha)になります」
「当時一戸あたりの割り当て面積でした」
3)器材がありません。測量には苦労しました
例えば、地面に直線を引くためには竹の棒を何本も立てて、それを一直線に見通すことで直線を引きました。ただ上志津原の地形は結構凸凹があります。「凹に立てた棒はテッペンだけしか見えず、根元は30aもズレていたよ」…当時苦労された山下さんのお話でした。
4)道幅は2間(3.6b)にしました
幹線道路以外の内部の道路は、全て2間幅です。現在の道路基準には達していませんが、当時「農道」としては十分だったのです。現在のような車社会になると大変不便で、「今にして思えば」といったところでしょうか。
5)未舗装道路には砂利が必要ですが
こうして道路の線引きは出来ましたが、如何にもならなかったのが道路に入れる砂利の不足でした。県南は採石可能な岩場だらけですが、この辺は岩どころか石ころすら珍しいのです。
 砂利の入ってない未舗装道路は悲惨なものです。雨天・霜解け・・・サツマイモを運ぶトラックさえ後押しが必要でした。
▼桜並木が途切れている訳
桜並木が美しい「ふれあいどおり」ですが、はらトピア近くに「ソメイヨシノ」が無いところがあります。
 その訳は・・・昔、通勤・通学時、泥が挟まって動かなくなった自転車の泥落しに、身近にあった桜の枝を皆が失敬した為、ついに無くなったのです。
6)道路のためには何でもしました
砂利は無くても・・・凹んだところに土を入れて水はけを良くしたり・道路に溝を掘って溜まった水を道路の外に導いたり・・・ 旧軍施設のコンクリート床を払い下げて貰って、これを砕いて入れたりしました。(下志津飛行場の格納庫の床・習志野戦車隊の兵舎の床など)
▼道普請の働きぶり
上志津原の人達の道普請での働きぶりは、上志津本村の人達には驚きだったようです。何故なら、本村の人達の道普請は「3年の疲れがとれる」程のんびりだったからです。
7)土地改良工事で道路が改良されました
昭和31年、千葉県は県の事業として「上志津原土地改良工事」を施工しました。ところが余りの悪路で工事資材の運搬さえ困難だったのです。そこで敷かれたのが、当時操業を開始していた川崎製鉄の鉱砕でした。土地改良の前に先ず道路改良だった訳です。
▼その鉱砕
未破砕だったため、大きいものは直径30〜40aもありました。道路にその大きさの穴を掘ってひとつひとつ埋めたそうです。
8)最初の舗装は、上志津原十字路・勝田川間でした
昭和48年3月、最初の舗装工事が行われた様です。町の中心部の上志津原十字路から勝田川間(約1km)となっていますが、勝田川から向こうは千葉市ですから、おそらく既に舗装されていたのでしょう。

昭和50年頃の道路

幹線道路でないところはご覧のとおりです。 
 砂利は入っていますが、危険が一杯だった様です。
上志津原土地改良工事
畑地灌漑(かんがい)など、土地改良事業が実施された。
水が出た!

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